那珂川市のはずれにひっそり佇んでいる石碑です。
天正7年(1579)10月、肥前の龍造寺・筑紫軍が南面里の鷲ヶ嶽城(鷲ヶ岳城)の大友方・大鶴鑑尚を攻めて破れ、天正9年の龍造寺軍の攻撃により鷲ヶ岳城は落城しました。
そして天正14年(1586)7月、島津・秋月連合が一ノ岳城に来襲し野介広門が破れ、秋月種実の属城となりました。しかしまもなく再挙した広門が秋月の城兵を追って奪還。
続く戦で多数の死者が出る事になりました。村民が死者を埋葬した場所は39mほどの細長い塚となり、首塚・千人塚と呼ばれ、今ではこの「塚神社」の石碑が残るのみとなっています。
以前見た郷土資料に、戦国時代に千人塚のあった山田のこの一帯は塔の原と呼ばれたというような資料がありました。筑紫野の塔原とは別でしょうか?
また、貝原益軒の『筑前国続風土記』の那珂郡、山田村の項に「此の村の上、四箇畑に行く道の西なる田の中に細長き塚あり。むかしいかなる時にや、合戦有し時、骸をうづみし所と云り」とあります。
戦国時代に思いを馳せるに丁度いい隠れ歴史スポットです。
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