美野島の歴史①

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歴史
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この地に住んでしまったのも何かの縁。
一時とはいえ住んでいる地域の歴史を紐解く事はなかなか味わい深いものです。
まずは美野島地区の基本的なデータからまとめてみました。

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美野島は島だった

福岡市博多区に位置する「美野島」地区。
地域名である「美野島」の由来ですが、かつて中洲~赤坂くらいまでの範囲が「冷泉津(れいぜいつ)」と呼ばれる入り江であった頃、住吉神社の南に浮かんでいた「蓑島」と呼ばれる島から来ています。
蓑島には、万葉集で唯一登場する福岡人として知られる「建部牛麻呂(たてべのうしまろ)、(天平(729-749)、怡土(いと)郡深江村子負(こふの)原にある鎮懐石の伝説を山上憶良に伝えた)」という人物が住んでいたとされます。
下の鎌倉時代(800年ほど前)の古地図(上が南)では、「島としての簑島」が存在した頃の福岡市内の様子がはっきりわかります。
その名から、おそらく蓑の材料となった葦などが茂っていた小島だったのではないかと思われます。

画面中央上部の森が住吉神社。その右上の小島が蓑島。その左上の川が那珂川。

様々な治水の影響

現在、美野島地区の西に沿って流れている「那珂川」は、平安時代までは現在の渡辺通りにある日赤病院ほどの辺りに河口があったとされますが、そこから堆積が繰り返され、河口が前進していきます。
島東部は人工的に埋め立てられたという説が有力なようです。結果、那珂川は蓑島の西部を流れるように流れを曲げてしまったようです。
あるいは、古地図では那珂川の西を流れている四十川(上流で那珂川から分かれた支流)の方に、両河川が一河の那珂川としてまとめられたという説もあるようです。
そして、簑島は対岸の住吉地区や塩原(汐原)地区と陸続きになりました。

なお、現美野島地域はそれまで住吉村南部であった所を明治期に蓑島と通称されたものの流れで存在しています(昭和44年に美野島と改称)。
また、古地図に見えるオリジナルの蓑島と微妙に位置関係がずれているため、現美野島地区は、この古地図以降に埋め立てられた蓑島以東の那珂川河口付近のエリアであるとも考えられます(古地図では簑島が住吉の南西に見えるのに対し、現在の美野島は住吉の南~南東に分布する為)。
現美野島地区が過去に島であった場所にせよ、埋め立てられた場所であるにせよ、現美野島地区内に「厳島神社」や「弁天社」など、水と関わりの深い神社が存在するのも、この様な歴史に由来するものと思われます。

また、この地図上で住吉神社の東南方面から発し、住吉一丁目のあたり(現在のキャナルシティの辺り)で冷泉津に流れ込んでいる「比恵川」ですが、これもまた下流域が埋められて流れを変えられています。
1570年には、柑子岳城主・臼杵安房守(アキツグ)が、この一帯に砦を築き堀を巡らし外部と出入り門を設けて守りを強めました(その矢倉門跡は残っていませんがそれを伝える石碑が博多警察署前に立っています)。
当時、御笠川下流に位置する比恵川は、博多駅と住吉村の間を東西に流れ櫛田神社南方で冷泉の津に流入して、たびたび洪水を起こし、博多東部から住吉村はよく浸水しました。
この為、堅粕・比恵あたりを掘削、幅36mの大きい堀をまっすぐ北へ聖福寺裏から松原、石堂のそばを通って海まで掘って流路を変え、洪水調節と共に軍事施設ともしました。この川は現在の「御笠川」、別名石堂川といいます。
この堀は当時彼の官名をとって房州堀と呼ばれました。
こういった経緯があり、比恵川(御笠川)は流れを強制的に真北に変えさせられ、博多湾に直接注ぎ込む形になりました。
博多の街はこのような治水工事が歴史的にあちこちで行われ、そして何度も姿を変えてきたのでしょう。

[参考:福岡地区の史跡と民話その1 東区博多区編 青木晃]

那珂川についてメモ

古墳時代の推定海岸線は大牟田線の福岡〜大橋のすぐ西側あたりで、大橋から細長く南に入り込み老司あたりが那珂川の河口だったそうです。
海岸線はさらに竹下あたりの那珂川岸のやや東、住吉から博多東岸、そこから箱崎へと伸びて住吉神社櫛田神社あたりは海辺だったとか。縄文では岩戸あたりまで入海だった可能性があるという事です。
那珂川は急流でよく荒れ、洪水を起こし山を削って山津波となって下り、田畑や集落押し流し入海を陸地化していったそうです。田畑は肥沃ですが絶えず洪水が起き、埋まった田畑にまた田畑耕して、を繰り返していました。
平安時代初めには現在の日赤病院あたりまでは陸地化し、美野島は離れ島に。
天神から中洲一帯は室町中程から徐々に低湿地に、江戸時代は芦のしげる荒地だったそうです。
[参考:福岡地区の史跡と民話 その四 筑紫地区北部編]


住吉神社の本社は現人神社。那珂川は神功皇后が作った裂田溝。裂田神社の水路の溝から岩盤。
[参考:ふるさと文化誌 那珂川の里物語]

引用

蓑島(p580)
古代にみえる地名。現美野島地区一帯にあたると考えられる。那珂川河口の島であったとする説もある。「万葉集」巻五に収める鎮懐石を詠じた歌(山上憶良)の左注に、鎮懐石説話の伝承者として「那珂郡伊知郷蓑嶋人、建部牛麿」がみえる。「伊知郷」は「和名抄」にみえず未詳。「檜垣嫗集」には「ふらばふれみかさのやましちかければみのしままではさしてゆきなむ」とみえ、御笠郡にある筑前国府から庇護に帰る出立の際の雨を詠むのに、傘(御笠)の類語として蓑(蓑島)を引合に出している。また「太宰管内志」は「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条の美野駅を「みぬ」「みの」と読み、この付近かと推定している。

住吉村(p580)
(現:博多区祇園町、博多駅前三ー四丁目・博多駅南五丁目・住吉一ー五丁目・美野島一ー四丁目、中央区春吉一ー二丁目・渡辺通一ー二丁目・清川一ー三丁目)
那珂郡に所属。博多の南東方、那珂川下流域に位置する。南は竹下村、野間村・清水村(現南区)、北西は春吉村。村名の由来は住吉神社があることによる(続風土記)。小早川時代の指出前之帳では春吉村を含む住吉村の田一二四町余(分米一千九八二石余)・畠四九町八反余(分大豆三〇四石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高二千七〇六石余、うち大豆四二一石余(慶長石高帳)。元和七年(一六二一)の代官目録(石城志)によると当村のうち一千七三六石余は博多年行司の差配であった。寛永元年(一六二四)神屋宗湛は所持する茶入を召上げられる代りに、当村のうち五〇〇石と黄金二千両を与えられることとされた(三奈木黒田家文書)。元禄五年(一六九二)には高一千七九五石余、家数七九・社一・寺二、人数四三二(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高は一千一五八石余。「続風土記」は枝村として蓑島村をあげる。同村の郡帳高は六三七石余(前掲書上帳案)。寛政期(一七八九ー一八〇一)の家数七八(うち麹家一)・人数二六一、馬五一(別本「続風土記附録」)。「地理全誌」によると人家は本村と蓑島・遠領(とおりょう)・大木・平田・新屋敷・宮ノ後(みやのうしろ)・横田の八ヶ所にあり、戸数二七九・人数一千一九三、馬六四、荷車二・人力車二。物産は麦・大根・野菜類・茄子・西瓜・牛蒡・葱・柿・口交 口留 口巴《WordPressの問題で、部首を分解して表記しています。ジャカルタ=ジャガタラ芋》・梨・蜜柑・櫨実《ハゼの実。ロウを取る》・菜種・醤油など。産神は住吉社。浄土宗鎮西派妙円寺(現浄土宗)、博多明光寺末の医雲がある(続風土記附録)。

〔古代〕蓑島
奈良期から見える地名。筑前国那珂郡のうち。現在は海岸から離れているが、地名からすると、元来は島状の地形であったと考えられる。「万葉集」巻5に那珂郡伊知郷蓑島人建部牛麻呂の名が見える(古典大系814左注)。蓑島は那珂郡伊知郷に属し、そこには建部牛麻呂なる人物が澄んでいたのである。平安期の「檜垣嫗集」にも、「ふらば降れ御笠の山し近ければ蓑島まではさして行きなん」という歌が収められている(群書15)。またこの地を「延喜式」に見える美野駅の所在地とする説がある(太宰管内志)。

〔近世〕蓑島村
江戸期の村名。那珂郡のうち。福岡藩領。塩原触に属す。住吉村の枝郷(元禄郷帳・天保郷帳・続風土記)。村高は、「元禄国絵図」498石余、「天保郷帳」637石余。「旧高旧領」には当村名は見えず、幕末・維新期までに再び住吉村のうちに含まれることになった。

〔近代〕美野島
昭和44年~現在の町名。はじめ1~3丁目、昭和46年からは1~4丁目がある。はじめ福岡市、同47年からは同市博多区の町名。もとは福岡市住吉の一部。町名は、旧通称町名蓑島にちなむ。昭和46年清水・竹下・住吉の各一部を編入。同年の世帯数1丁目730・2丁目894・3丁目508・4丁目151。

みのじま 蓑島<博多区>
〔近代〕明治期~昭和44年の通称地名。住吉の南部の那珂川よりを蓑島と通称した。明治末期に新柳町遊郭の対岸として蓑島土手の開発が進み、大正期に急発展をとげた。大正末期には住吉新町・蓑島本町・蓑島新町などのしんまちが登場して住吉宮前から南に一直線の町並みが揃い、住宅・商店ができるとともに労働者・商人向けの貸家が増え、農村部が一挙に都市化の様相を示した。大正15年には北九州鉄道(昭和12年国鉄筑肥線となる)が博多まで延長し蓑島駅が開業、昭和初年までに博多織松居の染色工場、醤油、ゴム、タングステン工場などが建設されたが、特に昭和3年の日本足袋製靴工場は3万坪の敷地と4千人の職工を擁するもので、工場の進出とそれに伴う人口増加が目立ったが、工場からの染色などによる悪水放流による川の汚染も始まった。蓑島橋通りと対岸を結ぶ蓑島橋は戦前からの主要交通路であったが、永久橋になったのは昭和41年で、同年さらに南に百年橋(新蓑島橋)が完成、百年橋通りは有数の交通量で知られる。現在の美野島1~4丁目付近にあたる。

《》は筆者注

出典:『角川日本地名大辞典 40 福岡県』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店発行 1988年)地名編の「美野島」(p1305)、
『日本歴史地名大系 41 福岡県の地名』(平凡社 2004年)(p580)
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